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wind-designとは
昔から風は神の息と言われてきました。また聖霊(神の霊)は風とも言われています。
聖霊は吹きたいところを吹きます。
WIND DESIGNは風の吹くまま、知恵の宝庫であり、祝福のもとである聖書に書かれている言葉を紹介・配信するサイトです。
全て必要なことは聖書の中に書いてあります。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネ8:32

どこの宗派にも属さず、宗教という形式ではなく、自由でのびのびとした視点で解説しています。
どうぞ、配信登録されて、祝福を受け取ってください。
(ものみの塔・モルモン教・統一原理とは無関係です)
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戦いの日のために馬を備えよ
2012年3月 5日
人生は、神とあなたが力を合わせていくものです。

すべてのものをはじめから創造した偉大な神は、今もあらゆるものを神の主権のうちに治めています。

しかし、あなたも自身も神の計画のためにしなければいけないことがあります。

聖書はこう言っています。


馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。
(箴言21:31)


「救い」というところが、他の訳では「勝利」とも書いてあります。

つまり、結局は神の力によって、事が成るということです。

私たちは大いに神を信頼してよいのです。

では、あなたは何もしなくてよいのでしょうか?

神にまかせきりでよいのでしょうか?

私たちは、馬を戦いの日のために備えておく必要があります。

馬は訓練され、鞍や蹄鉄を整え、実戦の稽古をし、きちんと世話をしてコンディションを整えておく必要があります。

あなたにとって「馬を備える」とはどんなことでしょうか?

今度の大型案件受注のためのプレゼンテーションを入念に準備することかもしれません

念願の志望校に合格するための猛勉強かもしれません。

大切なことは、私たちが「今、やるべきことを最優先してしっかりやる」という原則を忘れないことです。

その上で、最終的な結果は、神の力にゆだねられていることを心得るのです。

つまり、あなたがやるべきことと、神に委ねることのバランスが大切だということです。
神の役割と私たちの役割をしっかり考えることが大切です。

混同してはいけません。

私たちが何もせずに、すべて神がうまいこと物事を運んではくれません。

私たちが必死に努力してすべて自分の力で成し遂げようとするのも大きな間違いです。

私たちの役割を神に押しつけてしまわないように、神の役割を私たちが奪ってしまわないように気をつけなくてはなりません。

最終的に事を成し遂げてくれるのは神の役割、そのために自分ができることをしっかりと備えていくのがあなたの役割です。

自分がやるべきことはやり、その上で祈りをもって神に信頼し、神の救いと勝利を受け取りましょう。


国際ナビゲーター
鈴木陽一  


人がやるべきことは、こちらをご覧ください。

人生の目的を知る方法
http://6000nen.com/
通じ合う思い
2012年2月 3日
イエス・キリストが、病人を癒したり、奇跡を行うとき、ほとんどの場合、人に「あること」が、欠かせませんでした。

奇跡が起こされる時になくてはならないもの。

それは、イエスが奇跡を起こせるという期待、すなわち信頼です。

何としてでも、イエスに癒してもらいたい。

どうにかしてイエスに触れてもらいたい。

イエスならそれができる。

治してくれる。

何とかしてくれる。

そう信じている。

私たちの心からの信頼が、イエスの不思議なわざを可能にします。

お互いの思いが通じ合った時、奇跡が起きるのです。

聖書には、イエスが病人を癒し、悪人を追い出し、足や目の不自由な者が歩き見えるようになった話がたくさん書いてあります。

イエスは、病を奇跡で癒す前に、よくこう尋ねました。


「よくなりたいか。」
(ヨハネ5:6)


「わたしにそんなことができると信じるのか」
(マタイ9:28)


「わたしに何をしてほしいのか。」
(マタイ20:32)



イエスが、質問をするのは、その人が何を必要としているのか分からなかったからでしょうか。

誰でも、一目見るだけで、その人の必要としていることは分かるはずです。

それでも、あえて尋ねています。

私に何をしてほしいのか?

本当に私にそれができると信じているか?

イエスにそう尋ねられた人々は、口々に言いました。

主よ、直してください。

あなたは、それができると信じます。

どうかこの目をあけてください。

そして、奇跡がその身に起きました。

私たちとイエスの心が通じあった時に、奇跡が起きるのです。

これと全く対照的な出来事も起きました。

イエスが自分の生まれ育った町、ナザレに帰ったときのことです。

イエスは神の国の福音を伝え始めるまで、地元で大工として暮らしていました。

のちに宣教を開始すると、その教えと不思議なわざで有名になりました。

多くの弟子や民衆がイエスを慕い、つき従うようになりました。

その地方で有名になり、たくさんの尊敬と感謝を集めても、帰郷したイエスに対する人々の反応は、冷やかなものでした。

あぁ大工のイエスか、あそこのマリヤの子だろう、といったもので、イエスへの尊敬も、信じる心もありませんでした。

その時のイエスの状態が、聖書にこう記されています。


それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
(マルコ6:5)



イエスは、力あるわざを行うことが「できませんでした」。

「しなかった」のではありません。

ここは大切なポイントです。

人々がイエスに望み、期待し、本当に信じたその通りになるという信仰がなければ、イエスは力あるわざを行うことができないのです。

イエスと思いが通じ合うことで、イエスの奇跡がなされます。

信仰とは神に期待し、信頼することです。

そして、信仰によって、奇跡は起きるのです。


国際ナビゲーター
鈴木 陽一
神様の心
2012年1月27日
今日はヨナ記のお話です。

預言者のヨナは、神様から、ニネベと言う町に行って、神様の前に悔い改めるように叫びなさい、と言われました。

(預言者とは、神の言葉を伝える者。予言とは異なります。)

でも、ヨナはそれを無視して、タルシシュと言う町に向かいました。

ヨナがいた所から、ニネベは内陸部。

タルシシュに行こうとしてヨナは船に乗ったわけですから、全く反対方向に向かったわけです。

「いい根性してるな~」とか思いながらも、私は実は、ヨナの気持ちが少しわかるような気がするのです。

ニネベと言うのは、当時のアッシリア帝国の首都で、そこに行くというのは、自分の愛する国を征服し、自分の神様を冒涜し、自分の同国人を大量に捕虜として連れ去った国のど真ん中に行くことなのです。

ただ行くだけでなく、滅びないように警告しに行かなければいけないのです。

正直言って、私だったら、「まあ、滅びればいいじゃん。」とか思ってしまうわけです。

ヨナが実際にそのように思ったかはわかりません。

けれども、とにかく、ニネベに行くつもりはなかった。

そこで神様は嵐を起こしました。

海は大荒れに荒れて、船は沈みそうになりました。

結局ヨナは、自分がそのまま乗っていると、船に乗っている他の人たちも道連れにしてしまうことがわかり、自分を海に投げ入れてもらいます。

そして、神様は、大きな魚にヨナを飲みこませ、ヨナはその魚の腹の中で三日三晩過ごします。

ここで、話しが終わってしまうと、「神様の言うことには従わなければいけない」、と言う話になるのですが、ヨナの話はここでまだ終わらないのです。

ヨナは、ニネベに行って、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と神様の裁きの警告をします。

それを聞いた、ニネベの人達は、なんと、あっさり悔い改めてしまったのです。

それも、王様から、身分の低い人まで。

神様はそれを見て、裁きを下すのをやめました。

ここで話しが終わってしまうと、「悔い改めるのは良いことだ」とかいう話しになるでしょう。

また、神様がちょっときまぐれに思えちゃったりもするかもしれません。

ところが、まだここでも話は終わらないのです。

ヨナは機嫌をそこねました。

こんなに簡単に彼らが悔い改めて、神様が裁きを思い直すんだったら、何で自分はあそこまで苦労しなきゃいけなかったんだ、というのです。

で、彼は、神様の前に思いっきりすねました。

3歳児のようにすねました。

ふてくされて寝ていると、神様は、とうごま、という植物を生えさせ、その葉がふて寝しているヨナの上に覆うようにされました。

強い太陽から丁度よい影ができて、すねていたヨナも、機嫌が良くなりました。

ところが、それから、おちゃめな神様は虫を送り込み、その虫がその植物を食べて枯らしてしまったので、ヨナは、また照りつく太陽の下に戻ったのです。

ヨナは、またすねました。

ここで、神様の言いたかったことが登場します。

ヨナ記は、この神様の言葉でその幕を閉じます。

「あなたは、自分で骨折ったわけでもなく、自分で育てたわけでもなく、一夜で生え、一夜で枯れてしまったこのつる草を惜しんでいる。

それなら、わたしは、それ以上にこの大都市ニネベに住んでいる12万余りの何もわからない人々と家畜を惜しまずにいられようか。」

これが神様の心です。

神様は、自分に逆らうものを容赦なく裁いて喜んでいる方ではなく、一人一人のことを本当に大切に思っているんです。

誰が死ぬのも喜ばないのです。

エゼキエル書でも神様はこう言っています。

「私は悪者の死を喜ぶだろうか。

彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか?

・・・わたしは、誰が死ぬのも喜ばないからだ。だから、悔い改めて、生きよ。」


ひろこ
イエスが何とかしてくれる
2011年11月16日
必死に、何かを求めて行動したことがあるでしょうか。

イエスは、必死に願い行動する人に、手を差し伸べてくれます。

信じる心に突き動かされた必死な行動に、神は必ず報いてくれる方であることを聖書は約束しています。

次のようなエピソードが聖書に記されています(マルコ2:1-12)。

イエスがカペナウムという町に滞在していることが知れ渡った時、一人の中風に苦しむ人が、四人の男に担がれて、イエスの元に来ました。

イエスは病気を直すことができるという噂が、辺りに広まっていたからです。

四人は、イエスの前に中風の人を連れて行くことができれば、病が癒されるのではないかという希望を抱きました。

床のまま担いでイエスのところに運んだぐらいですから、四人にとって、この人がとても大切な人であったことが伺えます。

さて、実際にイエスの元に到着すると、あたりは人でごった返しています。

民衆はとても家に入りきる人数では収まらず、戸口のところまですきまもないほどです。

中風の人を担いできた四人は、驚き、失望したかもしれません。

どれだけ待てばイエスに会えるのだろう。

こんなにたくさん人がいては、いつまでも会えないのではないか。

せっかく5人でこここまでやってきたのに・・・。

そこで彼らはどうしたか。

列に並んで順番待ちをすることでも、民衆をかき分けて強引にイエスの元に病人を連れて行くことでもありませんでした。

なんと四人は、病人を担いで、その家の屋根にのぼり、イエスがいるあたりの屋根を剥がして、穴をあけて、そのから中風の人を寝かせたまま吊り下ろしたのです!

そしてイエスのそばに近寄ることに成功した中風の人は、イエスのことばで癒され、自分の足で歩いて帰ることができました。

病人を担いだ四人の人の圧倒的な行動力にまず驚かされます。

他人の家の屋根に上って、屋根を剥がして病人を吊下ろすという発想は、普通はなかなか出るものではありません。

彼らの一見無謀とも言える行動は、どこから来たのでしょうか。

それは、信仰でした。


イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
(マルコ2:5)



イエスは、5人の行動の中に、信仰を見ました。

熱意や大胆な行動、言葉ではなく、信仰を見ました。

なぜここでイエスは「信仰を見」たのでしょうか。

イエスが言う「信仰」とはどういうことでしょうか?

信仰を理解する助けになる一つの聖書箇所があります。


信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
(ヘブル11:1)



つまり信仰は、「希望を確信させるもの」、と聖書は言っています。

5人は希望を抱いていました。

それは単なる希望ではなく、確信となって大胆な行動へとつながっていきました。

それはやがて信仰となり、イエスはその彼らの信仰を見て、彼らの願いが叶えられました。

何かを必死に求めて行動するとき、心にイエス・キリストを迎えましょう。

イエスなら何とかしてくれる!

その希望が確信に近づく時、神はあなたの内に信仰を見ます。

そしてその信仰によって、神は偉大なわざを私たちの身に成し遂げてくれるのです。


国際ナビゲーター
鈴木 陽一
いま、神に何を求めるか
2011年10月 6日
いま、神があなたの目の前に現れました。そしてこう尋ねます。

「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」

あなたは神に何と答えるでしょうか?

この問いにすぐに答えられる準備ができているでしょうか?

イスラエルの国王ソロモン。

約3000年前に生きたこの男こそ、神の究極とも言える問いを尋ねられた人物です。

彼は若くして父親であるダビデの跡を継ぎ、イスラエルの三代目の王となりました。

父ダビデは極めて偉大な王でした。

神に心から従い、神にも民にも愛されて、強大な王国の礎を築きました。

幼い息子が、その大きすぎる父の背中と自分を較べて落胆したことは一度や二度ではなかったでしょう。

ソロモンは王となった当初、自分がまだまだ未熟な者であり、大勢の民を率いる器であるとは言い難いことを痛感していました。

ソロモンは神の問いにこう答えました。


わが神、主よ。
今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。
しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。
しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。
さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。
(1列王記3:7-9)



ソロモンは自分の至らなさを知り、国王として何が求められているかを知っていました。

この願いは神の御心にかなったものとなり、現実となりました。


神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。
(1列王記4:29)



知恵を得たソロモン王とその後のイスラエル王国の栄華が、とてつもないものとなったことが聖書に記されています。

ソロモンの願いは、自分のためではなく、他の人のため、社会全体のためのものでした。

彼が願うところは、自分の財産や地位などではなく、イスラエル王国とその民のさらなる繁栄のためであったのです。

この点に、大いに学ぶことができます。

「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」

世界中の金銀財宝に不老不死のからだ...。

私たちはついそんなものを求めてしまいそうです。

しかしソロモンはそうではありませんでした。

自分のことよりも神の王国とその民を第一に考えました。

神はその願いを叶えたばかりか、こうも約束しました。


「そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。」
(1列王記3:13)



結局ソロモンは、誰よりも豊かな知恵を得た上に、富と誉れをも与えられたのです。

これは注目すべき神の偉大な約束です。

あなたは何を神に求めますか?

自分のためではなく、他の人のために。

小さなことではなく、偉大な目的のために。

そして神のために。

あなたが願い、世に成したいことは何でしょうか。

神はいま、私たち自身に語りかけています。

「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」

富や誉れは願わずとも与えられます。

あなたは、神に何と答えますか?


わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。
(ルカ11:9)




国際ナビゲーター
鈴木 陽一