聖書は、人々の多様性を認め、互いにそれぞれが神から与えられた素晴らしい持ち味を生かして互いに貢献し合っていくべきことを教えています。
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。 (1ペテロ4:10)
私たちの得意なこと、好きなこと、上手くできることを通して、人が喜んでくれる。そのようなものを聖書では「賜物」と呼んでいます。英語では主にGift(ギフト)と訳されています。
天賦の才能という表現がありますが、まさに神が恵みによって私たちに賜った、すなわち与えてくれたギフト、それが賜物です。
一人ひとり異なる人間として、神によって造られた私たちは、その外見だけでなく、感覚、好み、得手不得手も千差万別です。またそれは、創造者である神ご自身の計画によるものです。
だれしも、得意なこと、興味のあること、やっていて楽しいことがあるはずです。
それが他の人より必ずしも秀でているものでなくとも、喜んでもらえるものがあります。
その一人ひとりの賜物を生かして、互いに仕え合う。神から恵みを受けている者の大切な役割だと聖書は言っています。
また、私たちはそれぞれ強さを持っていますが、同時に弱さも持つ存在でもあります。
それは肉体的な弱さ、そして精神的な弱さです。
ある人は、はた目からは弱さしか持っていないように思える人もいるかもしれません。
しかし、聖書は、私たちを一つのからだに例え、その弱い部分をこのように表現しているのです。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。 (1コリント12:22)
弱い器官が、からだの中ではかえって欠かせない存在である。聖書では、弱さが必ずしもネガティブなもの、隠すべきもの、克服すべきものとしては捉えられていないのです。
このように聖書が教えてくれているので、私たちは自分の賜物を生かして積極的に互いに貢献していくことができるのと同時に、自分の弱さをも、それを隠さず、そして受け止めることができます。
神は私たち一人ひとりに、大きな計画を用意してくれています。
私たちの中に、まだ発掘されていない神からの賜物が眠っているかもしれません。
一人ひとりが自分の賜物を発見し、それを研磨し、自分らしく互いに貢献しあっていく。
それが、聖書が描く私たちの理想の関係性なのです。
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。 (1コリント12:31)
国際ナビゲーター
鈴木陽一

元ビートルズのポール・マッカートニーは、"Silly Love Songs"という歌の中で「世界をラブソングでいっぱいにする」と約束しました。
それが実現したかどうかはわかりませんが、いつもどの時代も、新しいラブソングが生まれています。
スタイルが変わりリズムが変わりますが、人々はラブソングを愛するのを止めません。神も同じです。
聖書は「もっとも美しい詩(うた)」雅歌を紹介しています。
どんなメロディーだったかはわかりませんが、詩の一部は今日のラブソングとそれほど変わりません。
♪あなたのくちびるで、私にキスして。あなたの愛はワインよりも素敵・・・一緒にいる時は幸せ、さあ、たくさん飲んで愛の中で自分を忘れて♪雅歌1:2、4
詩にはかなり大胆な表現もあります。
私たちはセックスについて語ることを恥ずかしいと思いますが、どうも神はそうではないようです。
どうして聖書にラブソングが、それもかなりきわどいのが入っているのだろうといぶかる方もいらっしゃるでしょう。
それに正しく答えられる人は誰もいませんが、よくいわれる答えは、この歌が神のご自分の民―イスラエルーに対する愛を歌ったものだというものです。
もうひとつは、これは神の私たちに対する思いを歌ったものだとするものです。
私にはどちらが正しいのかわかりませんが、神があなたを愛していることは分かります。
それは知的な概念でのことではありません。
神はあなたに全く夢中なのです。
あるラブソングにこういう歌詞があります。
♪あなたがいないと彼は微笑むことができない。あなたがいないと笑うことができない♪
あなたが喜んでいるとき、神も喜んでいます。
あなたが悲しいとき、神も悲しんでいます。
あなたのことを、世界中の誰もおよばないほど深く強く愛しているからです。
今度、ラジオやi-Podでラブソングを聞くときに、どれほど深い強い愛が歌われていつか気をつけてみてください。
そして神がそれをはるかに上回る深く強い愛を数千年前に歌にしたことを思い出してください。
その愛は今も変わらずあなたに向けられています。
ジェフ・ディーン

聖書が私たちに与えている大きな約束は、私たちが神のもとで永遠のいのちが与えられるということです。
永遠のいのちという大きな希望です。その約束を私たち一人ひとりが手にするために、神から求められているもの、それは、私たちが「正しい」者になるということです。
その正しさとは、「神の前に正しいこと」という意で用いられ、そのことを表す語として「義」という言葉が使われます。何によって人の正しさをはかるのか。
その判断は神にある、というのが、聖書が私たちに示す大きな前提です。聖書の中には「義」について書かれた箇所が多くあり、それが聖書のメッセージの根幹を成すカギであるとも言えます。
聖書の中で最初に、義ということばが登場するのは、こんな一文です。
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 (創世記15:6)
「彼」とは、アブラハムという人のことで、この直前には、神がアブラハムに対して子孫を星の数ほどに増やし、祝福するというメッセージを送っています。
アブラハムはそれを信じ、神は、その彼の信仰を「義」と認めました。彼の正しさは、彼が信じたことによって認められたのです。
また、それから1000年以上も後に書かれた聖書の箇所では、同じくこう言われています。
人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 (ローマ3:28)
ここでも、信仰によって義と認められる、とあります。
聖書が私たちに伝えているのは、私たちが正しい存在になるために、神を信じる信仰が必要だということです。
私たち人間は、自分自身の力だけでは正しい者になるこができません。「正しいかどうか」は神が判断することです。
私たちは、自分が正しい者であるかどうか、神に判断され、受身的に、正しいと「認められる」存在なのです。
主体的に追い求めるというより、むしろ受身的な印象を受けます。正しい者になるために私たちがすべきことは、ただ信じる者になるということです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 (ヘブル11:6)
国際ナビゲーター
鈴木陽一

先日、Evan Almighty(エバン・オールマイティ) という映画を観ました。
別に特記する必要もない普通のコメディなのですが、その中の登場人物の一言が忘れられません。
それは、「旦那の気が変だ」と夫を離れ、家を出た女性に対して神様役を演じる男の人が言った言葉です:
Let me ask you something.
If someone prays for patience, do you think God gives them patience?
Or does he give them the opportunity to be patient?
If they pray for courage, does God give them courage, or does he give them opportunities to be courageous?
If someone prayed for their family to be closer, you think God zaps them with warm, fuzzy feelings?
Or does he give them opportunities to love each other?
耐え忍ぶ心を下さいと祈るとき、神はどのようにその祈りに答えられるのだろうか。
耐え忍ぶ心を与えられると思う? それとも耐え忍ぶ心を育む機会をくれるだろうか。
勇敢な心を下さいと人が祈るとき、神は勇敢な心をすぐに与えられるだろうか、それとも勇敢な心を持つための機会を与えられるだろうか。
もしだれかが、家族の中が深まるように祈るとき、神様は家族をあいまいになんとなく引き寄せ合うだろうか?
それとも、家族が愛し合わなければやっていけないような機会を与えるだろうか。
なんだか衝撃的でした。
神様に「信仰」を下さいと祈る時、もしかしたら神様は目に見えない形で答えないことによって、わたしたちの信仰を育むチャンスをくれていて、
「愛する心」を下さいっていう祈りには、身近に愛することが難しい人を置く事によって、わたしたちに愛する心を伸ばす機械を与えてくれているのかもしれませんね。
そう考えてみると、祈る私たちにも責任があります。
中途半端な祈りはできないです。
本当に願うことを祈り、そのことが叶うためには厳しい状態をも覚悟する。
ありきたりな定形的祈りで済ませず、内容にしっかり注意を払って、いつでも本気な祈りを神様に捧げたいです。
松本務

聖書が紹介する一つの大切な人格的な視点は、「寛容」であることです。それは、心を広く持ち、他者をきびしく咎めたりしないことです。
イエス・キリストはこの寛容を、畑に蒔かれた麦のたとえを用いて説明しました。
ある人が畑に良い麦の種を蒔くと、敵がやって来て麦の中に毒麦を蒔いてしまいました。
やがて麦が実ると毒麦も一緒に現れたので、しもべたちは毒麦を抜き集めようとしますが、主人は、一緒に良い麦まで取ってしまう恐れがあるからと、それを制します。
そして、収穫まで両方ともそのままにしておくように伝えます。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしな
さい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。 (マタイ13・30)
「収穫の時期」は神の裁きが下るこの世の終わりであり、「刈り手」は御使いだとイエスは説明しています。
正しい者も悪い者も、この世の終わりの時に刈り取られ、それぞれ定められた場所に置かれるということを言っています。
人間が自分の目から見て良し悪しを判断することは、神の視点に比べれば、絶対的に正しい視点ではありません。
それぞれの文化や育ってきた背景、置かれている心理状態によって、その判断の基準は変わりますし、また時には人の価値基準そのものが及ばないこともあるかもしれません。
一見毒麦のように見えても、実は神の目に良い麦であることも考えられます。
また、使徒パウロはこう言っています。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 (ローマ12・19-20)
これらの聖書のことばから、ある人や出来事を勝手にさばき、悪いと判断してしまうこと、またそのことに対する復讐は、私たちのすることではなく、神の仕事であるということが分かります。
神がその良し悪しを判断し、必要に応じて復讐しその報いを果たします。
そしてあとから続くことばから分かるように、聖書ではむしろ、敵に施してあげるように勧めています。「目には目を」ではなく、かえって敵に施すことが神に喜ばれることであり、その行為が、神の裁きを増し加えます。
寛容な心を持ち、私たちの一方的な視点から「毒麦」と決めつけてしまわないように気をつけましょう。さばくのは神の仕事です。
私たちはタイミングを待ち、また敵に良い行いをしていくことが期待されています。それが、神が私たちに望んでいることです。
悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12・21)
国際ナビゲーター
鈴木陽一














